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工房 和美紗美

和美紗美について

工房和美紗美の蒔絵

工房和美紗美は、平成24年12月に蒔絵職人 立野敏昭と代表である畝和弘とで立ち上げた蒔絵加飾を中心とした輪島塗製造販売会社です。

工房和美紗美の作風は、言わば立野敏昭の作風ともいえ、花鳥風月を得意としています。伝統的模様や古典的な図柄をアレンジしながらの幾何学的な作品も数多く残してきました。国宝や重要文化財の修理を手掛けるという特徴もあり、実に「本来なすべき輪島塗とは何ぞや、あるべき姿の輪島塗とは・・・」と禅問答的な思考を繰り返しながら玉虫羽根という輝きに出会うことにより、玉虫羽根蒔絵という技法を生み出しました。

この技法は、法隆寺所蔵 国宝「玉虫の厨子」の復興プロジェクト(およそ1,400年前推古天皇が仰ぎ見た玉虫厨子の輝きを現代によみがえらせようというプロジェクト)を機に虫の羽根を漆に定着させる技法を編み出したことにより確立されました。

まさに輪島塗という日本唯一の重要無形文化財である塗の技法に相応しい蒔絵技術の一つとも言えます。実に多方向、多角度からの不思議で、かつ美しい輝きは、私達を魅了し、およそ1,400年前、推古天皇が仰ぎ見ていた美しい輝きと同じ輝きであると思うと、何か不思議な感動と滄溟(そうめい)感、そして神秘的な情感を覚えます。

このような玉虫羽根蒔絵加飾の作品を手掛けるのは、輪島塗産地においても、当工房の立野敏昭のみであり、全国的にみても唯一性があり、オンリーワンの技術が特徴と言えます。

蒔絵職人 立野敏昭について

玉虫に命を懸ける立野敏昭の生い立ち、苦行の道

幼少の頃より、箸工場で働く父母と兄、弟の5人家族で、経済的に貧窮していたこともあり、朝早くから新聞配達や父母の手伝いを行うという親孝行の少年でした。もの心ついた頃より、父母の仕事を見て育ったお陰で輪島塗という物がとても身近な存在でした。小学生の頃に学校から帰ると、父が箸を切って何百本ものを重ねている姿を見ていると手伝いたくなり、さらに母が箸を塗っては立てている姿を見て手伝っている内に手仕事っていい物だなぁとずっと思っていました。

蒔絵の世界では最初は筆も持たせて貰えないし、技術は先輩の仕草や筆運びや仕上がった作品を見て盗んで覚えるということが当たり前です。その中で日々鍛錬し、失敗を重ね、その後は自分なりの個性を加えて初めて自分の作品ができます。10年経たないと何でも描ける職人にはなれないと言われている蒔絵職人の世界で修業に修行を重ねるのは、夢とはいえ苦行の道と言って過言ではありません。

輪島塗蒔絵に対する情熱、信条

輪島塗に対する気持ちは、学校を卒業する際、夢と希望に変わり、大好きな絵を描いて一生過ごせる蒔絵、大好きな物づくりに一生携わって毎日が送れる蒔絵師という仕事に魅力を感じ、厳しくつらい徒弟制度ではありますが、すぐに輪島塗蒔絵師の道に飛び込みました。

蒔絵の道に飛び込んだからには誰にも負けたくはないし、誰もが描けないような蒔絵を描いてみたい、見る人に感動を与えられるものを描きたいと人一倍努力しました。

伝統はただ受け継ぐだけでは飽きられて廃れていってしまいます。

そこに新しい技術を取り込んでこそ受け継がれていくのが伝統のあり方だと常日頃心に言い聞かせ、日々精進しています

玉虫との出会い

玉虫について

玉虫は温かい地方に生息し日本でも沖縄から青森までは生息しています。

玉虫はカブト虫科ですが、セミと同じように5年間朽ちた木の中で育ち活動期間は夏の2ヶ月間のみで秋には地面に落ちて枯れ葉に埋もれてしまいます。なかなか人目につかないので昔は縁起物として、玉虫の羽を箪笥(たんす)に入れておくと着物が増え、鏡台に入れておくとお嫁にいけ、財布に入れておくとお金が増えると言われ、大変貴重なものとされていました。

玉虫厨子について(法隆寺所蔵 国宝)

飛鳥時代に造られた玉虫厨子は、日本史上最古の工芸品ともいわれる傑作であり、推古天皇が自身の宮殿において拝んだとされ、国宝に指定されています。

透かし彫りの金具の下には、名前の由来となった玉虫の羽が敷き詰められていたと伝えられていますが、現在までにほとんどが抜け落ち失われてしまったと言われています。しかし現存する玉虫羽根は1,400年経った今でも、その輝きは失われる事なく光り続けています。

玉虫羽根蒔絵加飾という技の完成

平成の玉虫厨子

この国宝を蘇らせるプロジェクトは平成16年に始まり(実質は平成12年から作図の作業を始めていました)、全国の蒔絵師に6,000枚の羽を使って、かつての姿を忠実に復元する事、さらに約30,000枚の玉虫羽根を漆塗りの側壁に並べて装飾画を描き、「平成の玉虫厨子」と進化させたものを造るという二つの課題がかせられました。結果、全国の蒔絵師の玉虫羽根を使った試作品の中で一番に評価され「1,000年に一度のチャンスに巡り合え、職人としてこれ以上幸せな事はない」と思いましたが、全長3cmの玉虫との戦いは想像を絶するもので、何度となく諦めかけた自分がいました。

ただ職人の意地として絶対に諦める訳にはいかない、小さいころから人に感動を与えられる作品を完成させたい、という強い思いが沸々わき、何度も挫けそうになった心を取り戻しました。

蒔絵師は、漆器の表面に漆で絵を描き、乾かないうちに金粉銀粉などを「蒔く」ことで絵を定着させる職人です。絵の部分にアワビや真珠やサンゴを嵌め込む技法もあり、七色の光を放つ玉虫羽根も蒔絵の材料として注目された事もありましたが、たっぷりの油分に覆われた羽は強力な接着力を持つ漆や膠も寄せ付けず、実際に使われる事は無く、玉虫の羽を固定できる糊は理論的には存在しないと言われていました。そこから昼夜を問わず羽と向き合う日々が始まり、様々な条件下に於いて実験を繰り返し、表面の光沢を失うことなく強力な接着方法を半年後には確立することができました。

平成20年には、1,400年前と全く同じ塗り方、同じ蒔絵の描き方で6,000枚の玉虫羽根を使った玉虫厨子1基と、現在の最高の技術の輪島塗に36,143枚の玉虫羽根で壁面の蒔絵を施した「平成の玉虫厨子」の2基の完成に至り、奉納されました。(2008年洞爺湖サミットにおいて、海外の要人に日本の文化を紹介するために展示されました。)

玉虹(玉虫羽根蒔絵加飾)ブランドへの進化

これらの制作機会は、飛騨高山の実業家である故中田金太(平成19年他界)氏の依頼によるもので、同氏は玉虫蒔絵による茶道具や茶器を集めた「茶の湯の森美術館」を主宰していました。

同氏は、この貴重な玉虫の羽根を使い、初めて漆に定着させる蒔絵技法を用いた絢爛豪華な玉虫蒔絵の輝きを世界の方々に見て頂きたいと考えると共に、古の日本文化、匠の技術を世界に発信したいと考えていました。

平成19年には、ニューヨークのメトロポリタン美術館や韓国の故宮博物館にも企画展示をする予定でしたが、同氏が他界したことにより、その夢は実現できず、玉虫蒔絵のコレクションは、「茶の湯の森美術館」に展示されているのみとなっています。

その高貴な意思を継いで、古の日本文化、匠の技術を世界に発信したいと私達も考え、ブランドの構築を手掛けています。玉虫の玉はギョクと読み、この玉とは、古来より中国においては、宝石を意味します。つまり、宝石の如く、不思議な輝きを放つ虫ということで「玉虫」と呼ばれているのです。多方向、多角度から見ると、不思議な輝きや不思議な変色を楽しませてくれる玉虫羽根蒔絵加飾を、私たちは七色に輝く虹のような宝石という意味で「玉虹(ギョクコウ)」と名付けました。

国宝・重文の修復事業

私たち工房和美紗美は、塗の産地である輪島にて国宝や重要文化財である神社、仏閣を中心とした修繕工事、修復工事の塗の一部を担わせて頂いています。輪島塗という日本一の塗の技法を時に駆使し、時に修復前の塗の風合いや修繕前の塗を忠実修復するためにのみ職人の経験と誇りを唯一の糧として精進しています。